番外編



1 



大聖堂の入り口に立つと、時々足がすくむことがある。過去の自分ならば、そのようなことなど決してなかった。この美しい堂内の全景を眺めるとき、その目に映るのはただ輝きばかりだった。しかし今、同じ輝きが彼を動けなくする。もしそれが神に対してより真摯になったためならば、どんなにかよかっただろう。だが実際には違う。それはむしろ恐怖に近い気持ちだ。

オルベスは扉の前に立ち、しばらくの間、眼前に広がる壁画に見入っていた。どんなに膨大な聖典を研究し、どれほど大きな実績を残したところで、自分のやっていることなど結局は虚しいだけなのだ。ここに集う人々は虚ろな心を抱えたまま、さも敬虔であるかのような顔をして、形ばかりの祈りをささげている。しかしそれを非難することなど、彼にできるはずもなかった。オルベス自身、己がそういう人間の一人であることを痛いほどに自覚していた。

いつからか、彼の心は祈ることをやめてしまった。どんなに祈ったところで、あの人に笑顔が戻ることなど、この先ないに違いないのだから。それどころかあの人はこの場所を、あの壁画に描かれたものを、心から憎んでいる。イズミルを奪ったのはこの場所であると信じて、決して疑うことはない。そしてオルベスもまた、彼女の笑顔を奪ったのはこの場所であるという考えからどうしても抜け出すことができない。

軽く頭を振って、彼は堂内へと一歩踏み出した。深夜の聖堂内には誰もいない。燭台に輝く無数の炎は、日が昇るまでの間ずっと、磨き上げられた床に光を落とし続けている。足早に聖堂を突っ切ると、彼は祭壇脇に作られた詰所の扉を開いた。

 簡素な室内は薄暗く、物音一つしない。テーブルに燭台を置き、事前に受け取っておいた鍵束を取り出すと、部屋の奥にある扉の鍵穴に通した。ドアの向こうは、普段ほとんど使われることのない祭壇裏の小部屋へと続いている。言われた通りに中へ足を踏み入れると、オルベスは扉を固く閉じた。

「クラウス様」

一言そう呼びかけて燭台を奥へ向けると、部屋の奥からコツコツと足音が響き、暗闇の中でマントの影がゆらめくのが見えた。

「こちらへ」

クラウス――テムシ卿と人々が呼ぶ、今ではこの国きっての実力者である彼は、囁くようにそう言うと、部屋の隅にある隠し扉を開く。オルベスは黙って彼に従った。

扉の向こうに何があるかは知っている。人一人がようやく通れるほどの狭い地下道がしばらく続いていて、その行き止まりには小さな部屋がある。過去にもここを通ったことがあるが、あれはそう、随分昔のことだ。思い出したくなどないが、忘れたことは一日たりともない。今またここを彼と歩いているということは、あの過去に繋がる何らかの問題が浮上したということか。

 クラウスは、ただ黙々と前を歩いている。彼と、彼に関わるものごとには出来ることならこれ以上関わりたくはなかった。それはとりもなおさずオルベスの弟子、ユタに関わることにちがいないから。ユタの身辺については、なるべくシンプルであるべきなのだ。

 二人は一言も喋らないまま、あの小さな部屋にたどり着いた。四方を石に囲まれた殺風景な地下室は、小さな机と椅子が二客あるほかは何もない。普段ここを使うものは誰もいないため、ほとんど忘れ去られたような場所である。通気口の設備が十分でないためか、室内の空気は湿り気を帯びていて、通路や部屋からは強烈な黴の匂いが鼻をついた。ここを使うのはきっと、決して誰にも知られたくない話をするときか、もしくは何者かを絶対に逃げられない袋小路に閉じ込めておくときくらいのものだろう。

「呼び立ててしまい、すまない」

クラウスは低く響く声で言った。

「いえ。ですが正直、ここには来たくありませんでした」

オルベスは素直な気持ちを告げた。本来ならば目の前にいるこの男は、オルベスが軽々しい口をきけるような身分では決してなかったが、その昔、二人は学友だったことがある。その気安さと、彼に対する複雑な思いが、こういう時にはつい頭をもたげてしまう。

「あなたにとっても、ここはよい思い出のある場所ではないでしょうに」

ああ、とクラウスは応じる。

「だが、きみとこの話をするには、これくらいの場所でないと危険が多すぎるのでな」

オルベスは床に落としていた目を上げて、彼を見やった。光の加減か、実際にそうであるのかはよく分からなかったが、久しぶりに間近に見たクラウスは、少し疲れているようにも見えた。

「実は、ミウのことなんだが、」

何事も率直に告げる彼にしては珍しく、クラウスは少し言いにくそうに切り出した。

「しばらく前から、あの子が、ユタを自分の家庭教師にしてほしいと言い出した」

その言葉に、オルベスは一瞬耳を疑った。

「ミウ様が?ユタを、家庭教師に?」

しばらく、何と言ってよいのやら分からなかった。

「……なぜ、よりによってユタなのでしょう」

考えたくなどなかったが、どうしても嫌な予感がよぎる。

「もしやミウ様は、あの子について何か知っているのでしょうか」

「はっきりとは分からないが、おそらくは何か感づいているに違いない。恐ろしく勘の鋭い子だ。去年の夏には、あの別邸に行ってみたいとせがまれたこともあった」

「別邸というと、もしや、かつてレミ様が過ごされた……」

クラウスは頷く。

「お分かりだとは思いますが、あの二人を引き合わせるなど決してできないことです」

念のため、オルベスは若干語気を強めて言った。

「いくらミウ様たっての願いであろうと、それだけは無理な要求でございます」

「分かっている。彼は年も若すぎるし、修行中の身だから無理だと、私も彼女に再三言って聞かせた。だが普段は聞き分けのいい子が、これだけは譲れないと、どうしても折れてくれないのだ」

「であるならば、尚更危険でございましょう」

確かに、と、クラウスは言う。

「だが、あの子が彼の出自についてある程度のことを感づいているとすれば、私があまり無下に突っぱねすぎると余計に具合が悪い。私が断ったというよりはむしろ、そちらからもっともらしい理由をつけてはっきりと断ってくれたほうが、ミウとしてもあきらめがつくかと思うのだ」

なるほど、そういう話か。その言葉に、彼はひとまず安堵した。

「では、早々に断りの手紙を書いて寄越すことにしましょう。それでよいでしょうか」

すまない、とクラウスは言った。

「しかし、ミウ様はどうしてそのようなことを言い出したのでしょうか」

「分からない。ただ、あの子は昔から母親の過去については不思議なくらい敏感なところがある。いつだったか、まだほんの小さい頃、レミの後を追って、城を抜け出して墓地までついて行ったことがあるくらいだ」

「墓地というと……あの」

イズミルの墓。小さな、名前のない墓碑。

そこに花を手向けるレミのか細い背中を、オルベスは心に思い描いた。

「レミ様は、まだ、忘れてはいないのでしょうね」

彼のことを、という言葉は口に出すのが憚られた。クラウスは、無表情にうなずいた。

「忘れることなど、決してないだろう」

「貴方様にとっても、辛いことでございますね」

それを聞き、クラウスは少し驚いたようにこちらに目を当てていたが、やがて、きみに同情されるとは私たちも年を取ったものだ、と言って少し笑った。

「君には憎まれているとばかり思っていたが」

まさか、とオルベスは大真面目に言う。

「イズミルの死が貴方の本意ではなかったことくらい、今の私になら分かります」

そう言ってはみたが、クラウスは少し寂しそうに微笑んだだけだった。

「ミウがどこまで気づいているのか私にも確かめる術はないが、これ以上彼らが接触することは極力避けねばならない。きみに直接そのことを言っておきたかったのだ」

「心得ました」

当然、である。

何より、ユタに余計な負担をかけさせたくなどなかった。何も知らないほうがいいことだって世の中にはあるのだ。

クラウスはよろしく頼む、とだけ言うと、テーブルに置かれていた燭台を手に取り、先に立って歩き出した。早々にここから離れたい、そういう風にも見えた。彼にとっても、ユタの出生にまつわる出来事は忘れたい過去に違いなかった。勿論オルベス自身も、長々と昔話をするような気分にはなれない。


特に、この場所では。




 


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